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知床エクスペディション

知床半島周回シーカヤックツアー「知床エクスペディション」を主催するガイド・新谷暁生のブログ。

嶋磯松の思い出

我が知床の師匠、嶋磯松が1月6日に亡くなった。72歳だった。私は嶋磯松を船長と呼び、尊敬してきた。船長は私にとってかけがえのない人だった。また出来の悪い師でもあった。嶋磯松について書き残しておこうと思う。
出会った20数年前、嶋磯松は全盛期の羅臼のスケソ漁船の船長だった。私はNHKの番組取材で初めて嶋さんに出会った。有名人好きの嶋船長は役場と漁協に頼まれて取材船の船頭をしていた。何しろ船長は小林旭や藤田まこと、浅丘ルリ子と文通するほどの仲なのだそうだ。しかしこの仕事では横柄なNHKと横暴なアウトドア著名人にあきれ、同じ立場の私と当然のことながら馬が合った。私は撮影クルーの飯炊きをしていた。
私ははるか昔に徒歩で半島を回ったことがあり、冬の知床山脈縦走でこの土地の風の怖さを知っていた。だから海岸の地形や気象に詳しかった。それで船長の信頼を得た。しかし私の料理は口に合わなかったらしい。いつも顔をしかめて文句を言いながら食べていた。私は嶋磯松に出会ったことで知床の海と人間に再び興味を持ち、ガイドまでするようになった。

嶋さん宅にはいつもお世話になった。奥さんは嫌な顔ひとつせず親身に面倒を見てくれた。船長からはホラ話も随分聞かされたが、耳を傾けるべき話が多かった。羅臼の大勢の人々も紹介してもらった。みんな若いころの船長の武勇伝を知っている人たちばかりで、嶋磯松の名前を聞くだけで顔をしかめ、苦笑いした。そして一様に「どうにもならんおやじ」と言うのが常だった。嶋磯松は大勢に好かれていた。
太平洋戦争中に半島先端の昆布番屋で生まれた嶋磯松は、人生の大半を知床で過ごした。昆布集落で賑わった赤岩の知床岬近くの狭い石浜に、生家の残骸が今も残っている。嶋磯松は中学を出ると昆布漁師になり、その後漁船員となった。そしてやがて羅臼の花形、19トン(イチキュー)型のスケソ漁船の船長となった。頭が良くなければイチキューの船頭にはなれない。船の名は松栄丸という。これは磯松の松ではない。奥さんの松江さんから取った名だ。船長は「船には奥さんの名前を付けるもんです」と照れながら言った。
嶋さんにとってカヤックは暇人の遊びでしかない。私もそう思う。だがそれにしては知床の海はあまりにも過酷だった。昭和40年代に起きた2度の海難事故で、羅臼では合わせて100人を越す人々が遭難した。知床の問題は場所ごとに目まぐるしく変化する海と風だ。動力船でさえ難破する海に、木屑のようなカヤックで漕ぎ出すことは無茶だ。船長はそう思っていた。しかし嶋さんは私たちのことをいつも心配し、何かと面倒を見てくれた。腹が減っていないかと聞き、車の回送まで当然のように引き受けてくれた。ツアー参加者に自慢話をするのが常だったが、それが嶋磯松なりのサービスの表現だった。それはガイドとしての私にも大きく影響した。ホスピタリティは技術ではない。
嶋磯松のすぐに一線を越える馬鹿な冗談は、三浦雄一郎先生並みに秀逸だった。尖った靴の踵で頭に穴を開けられた時、船長は医者に「階段から落ちた」と言い訳したが、医者は「随分尖ったハイヒールのような階段だな」と言って手当をしてくれたと言う。嶋磯松はいつも東京の女子に中学生のように憧れていた。「良い恰好しい」を超越するという意味で、嶋磯松は羅臼の男だった。缶コーヒーを飲みながらラーメンを食べる人はあまりいない。しかし船長にとってそんなことは平気だ。缶コーヒーの飲み口から縮れたラーメンがぶら下がっていても一向に気にしない。最低の景色だった。そしてきれいな女性が現れるとすぐに「おねーちゃん寿司食べにいこ」と誘う。俺も連れてってくれと言うと「あんたはだめです」とすぐに答えた。嶋磯松は正直な人だった。私は自然だけではなく、嶋磯松からも参加者を守らなければならなかった。
魚が獲れなくなって漁に見切りをつけた船長は15年ほど前に船を下り、陸の仕事に転身した。羅臼の漁師はみな胸をなでおろした。流氷の海で若い船頭が入れた網の上から、「はい、ごめんなさいよ」と平気で網を入れるような人だったからだ。今は違うが当時の羅臼は漁師の序列が厳しかった。
陸に上がった船長は運送業から給食配達、廃品回収やごみ収集からキャンプ場の管理まで手広く仕事をした。私はよく船長の大型トラックの荷台にシートをかけて乗せられ、ゴミとともに移動した。冬が来て私がニセコに去っても、船長はよく電話をくれた。「どうしたのよ」と聞くと「いや暇だからかけた」と言う。「俺は忙しい」といつも電話を切った。嶋磯松はさみしがり屋だった。すまないことをした。
今でも私は嶋家の仏壇に手を合わせてから海に出る。しかしこの何年か、船長は調子が悪いらしく、茶の間で横になっていることが多かった。元々心臓に持病があり、手術と入退院を繰り返していた。しかし本人は釧路の先生が治してくれると、いつも病院の楽しさを語っていた。看護婦さんに親切にされることが嬉しかったのだろう。昨年秋に最後に会った時、体が半分ほどにも縮んでいた。それでも古バッテリーやタイヤを軽トラックに積んで処理場に運ぶ仕事をしていた。冗談だけは相変わらず達者だった。
年が明けてすぐに釧路の病院に検査入院する予定だったという。船長はそれまで港の陸回りの仕事に出ていた。しかし体調が急変し、自分で救急車を呼んで町立病院に入院した。そしてあっけなく死んでしまった。
昨年暮れに電話がかかってきた時、嶋さんは「ヒンヤさん来年も来るのかい」と聞いた。船長は入れ歯なのでシンヤをヒンヤという。私は「船長が死ぬまで知床を漕ぐ約束だからな」と答えた。船長にとってカヤックとは危険極まりない乗り物だ。それでも70になったら私の前に乗って半島を回ってやっても良いと、冗談のように言っていた。
私は嶋磯松に出会い、知床を漕いできた。5月に嶋家の仏壇に線香をあげた。そして奥さんの松江さんに倶知安末武の菓子とボストンベイクのカンパニーレーズンを手渡した。船長の好物だった。嶋さんは酒を飲まない人だった。 
嶋磯松は死んでしまった。一緒に半島を回る約束は果たせなかった。私もそれほど長くは漕げないと思う。しかし知床のカヤック乗りとして、今しばらく海を漕ぎ続けようと思っている。 合掌

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プロフィール

名前
新谷暁生
性別
男性