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知床エクスペディション

知床半島周回シーカヤックツアー「知床エクスペディション」を主催するガイド・新谷暁生のブログ。

アルピニスト 極限を目指す人たち
(『北の山河抄』から)

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アルピニスト 極限を目指す人たち
(『北の山河抄』から)

坂下直枝さんが2012年岳人8月号に書かれた「30年後」、というエッセイについて書く失礼を、まずご本人にお詫びしなければならない。承諾も得ていないが、感想文だと思ってご容赦願いたい。
ヒマラヤ8000m峰の頂きが全て登られた三十数年前、イギリス、ポーランドなど世界の先鋭的登山家たちは、ヒマラヤの冬季登攀や、困難なバリエーションルートからの登頂を目指すようになった。この新しい流れは「ヒマラヤ鉄の時代」と呼ばれ、日本の登山家たちもまたその戦列に加わった。坂下直枝はその中にあって活躍した人だ。この時代、大勢が困難な未知のルートから高峰を目指した。そして少なからぬ人たちが命を落とした。
「30年後」は植村直己、中村進、大谷映芳などと同じ時代にヒマラヤに青春を賭け、困難な登攀に挑んできた坂下直枝の、1982年のチョゴリ(K2)遠征から今日に至るまでの心の軌跡を綴ったものだ。植村さんは1984年2月、冬のデナリで消息を絶ち、中村進さんは2008年にクーラ・カンリの雪崩で死んだ。
「終わった山について語ることは命の燃えかすを語るようなものだ。」文中の言葉通り、坂下さんは過去の登山について多くを語ってこなかった。苛烈な戦争体験を兵士が語らないように、登山家もまた多くを語らない。「記憶は残像に過ぎない。」戦いに生き残った人は思いを反芻しながら黙々と生きる。生が尊いものだということを、心の奥底が知っているからだ。

登山家として優れた業績を残した坂下さんは、経営者としても成功を収めた。坂下直枝はクライミング用品の輸入商社、ロストアローの代表だ。穏やかで誠実な人柄と優れた経営手腕が信頼を高め、ビジネスを成功させてきた。坂下直枝はまた日本を代表する登山家として、世界の登山家との交流を深める役割を果たしてきた。
8000mを超える高所で人は生きられない。平地の3分の1に満たない薄い空気、強烈な太陽反射と寒冷、それらが人間の生命を蝕む。高所登山は人間が自らの意思で行う最も過酷な行為だ。そこに登り、生きて還るためには何が必要なのだろうか。それよりもなぜそのような所へ行こうとするのだろうか。坂下直枝はこれに挑み、多くの過酷な状況を乗り越えてきた人だ。

氏の気持ちを推し量ることなどできない。しかし「30年後」を読んで、私はほんの少しだけ坂下直枝の気持ちが理解できたように思った。この原稿は同じ時代に生き、死んでいった人たちへの鎮魂の祈りとも呼べるものだ。「生きている限り、それらの記憶は消えることなく灰として積層していく。それでは死んだ友が残したはずの深い灰の層はどこに浮遊しているのだろうか。」

1985年冬、坂下直枝はパタゴニアのイボン・シュイナードとともにニセコの我が家を訪ねてくれた。札幌秀岳荘の金井社長が連れてきてくれた。その年、坂下直枝はアマダブラムで一人の友を失っていた。

ニセコに来た目的はテレマークスキーをするためだ。坂下さんにとってはスキーをすること自体が初めてだった。アンヌプリ山頂北斜面の氷化した斜面をテレマーク姿勢で滑る坂下さんの下を、私は転倒したら飛びついて止めようと一緒に滑った。坂下直枝は転ばなかった。シュイナード氏はニセコのパウダーが気に入ったようだ。イボン・シュイナードは朝から日が暮れるまで森の中を滑っていた。そして宿帳に「ベター・ザン・コロラド・スノー」と記した。

イボンはその後も何度かニセコを訪れた。坂下直枝は翌春、単独で北アルプスのどこかをテレマークスキーで縦走したという。しかし後になってもうスキーはしないと言ったのを聞いた覚えがある。栄光と伝統の山学同志会会員の坂下直枝にとって、スキーとはやはり不らちで無駄なものだったのだろう。

この時代、私もまた極限を目指す若者の一人だった。1986年にネパールヒマラヤ、チャムラン遠征の準備をしていた私は、坂下さんに助言を求めた。私たちが目指していたのは当時の先鋭的な登山とは程遠い、時代遅れのオーソドックスなものだった。またアプローチのキャラバンもモンスーンの東ネパールを横断するという、いささか時代錯誤の遠征だった。しかし物事には順序というものがある。当時の私は先人の辿った道から学び、やがては自分たちの力による8000m峰へと夢を膨らませていた。

坂下さんは親切にアドバイスしてくれた。そして自分は必ずしも高所に強い方ではないこと、酸欠を避けるためにテントの入口を開けて寝ることなどを教えてくれた。また単独で登った冬のアンナプルナでヒドンクレバスを2枚突き破って墜落し、奇跡的に生還したことや、ヒマラヤ登山の危険の数々を話してくれた。イボン・シュイナードは私たちの話に興味を持って聞き入っていた。そして私の計画がアルン川上流のホングー谷の山だということを知ると、「それはチャムランか」と、目標とする山の名前を言い当てた。チャムランを知る人は少ない。イボンは以前にバルン氷河からアンブラプチャを越えたことがあるという。私はイボンの知識と経験に驚嘆した。

イボン・シュイナードはヨセミテ開拓期の優れたクライマーだ。彼は集まってくるクライマーに自作のピトンを売って生計をたて、また頑丈なスタンダップ・ショーツなる半ズボンを作って成功し、今日のパタゴニア社の創始者となった。

坂下さんはイボンに「高所登山は続けると必ず死ぬからもうやめろ」とよく言われると話していた。1982年のチョゴリ遠征の後で、イボン・シュイナードは坂下直枝をパートナーとして、ダイヤモンドCのロゴで有名な登攀用品の日本進出を始めた。

1976年、山学同志会はジャヌー北壁へと遠征し、16人の登頂者を出した。また1980年のカンチェンジュンガ北壁では無酸素で7名が登頂した。この時代の山学同志会は日本でもっとも優れた登山家集団だった。これはひとえに会を率いた小西政継の強烈な個性と、卓越したリーダーシップによるものだ。そしてそれは坂下直枝をはじめとする山学同志会の優れた登山家が支えたからこそ成し得たものだ。

1982年、日本でもっとも強い登山家たちが小西正継を登攀隊長としてチョゴリ(K2)を目指す。坂下直枝は常に先頭に立ってルートを開き、チョゴリ北稜の初登攀を果たして山頂に立った。しかし登頂後の8000mを超える高所でのビバークの翌日、共に山頂に立った柳沢幸弘隊員が遭難死した。更に坂下はこの遠征で長年共に歩んだ盟友、医師の坂野俊孝までも失ってしまう。原稿の中で氏は柳沢と、遅れて登頂した吉野寛の二人を残して一人下降したことを悔いる。そして自問自答する。しかしその評価は誰も下せない。生き残った者だけがその事実を反芻し続ける。

1983年、山学同志会は秋のエベレスト南西壁を目指す。しかしこの時、戦術面で小西正継と対立した坂下は小西と袂を分かち、遠征への参加を取りやめる。坂下直枝はチョゴリの反省を踏まえ、本来あるべき登山の姿をエベレストで実践することを小西正継に主張した。それは無酸素、アルパインスタイルという、当時、世界の先鋭的登山家の中での潮流となりつつあったスタイルだった。しかし確実な成功を得ようとする小西はそれを否定した。前年のチョゴリで坂下、柳沢とともに頂上に立った吉野寛と、同じく遠征に参加した禿博信はこのエベレスト遠征に参加した。そして無酸素で山頂に立った後に遭難死した。

1985年、坂下直枝は山学同志会の若い登山家たちとクンブー合宿を行う。それは東ネパールの秀峰、チョラツエ、タウジェ、アマダブラムを小グループに分散してシンプルに登るというものだ。この遠征で坂下直枝はクライミングとは関係のないすべて、つまり大がかりな準備や装備、シェルパや固定ロープあるいは酸素、そして高所キャンプといった、つまり遠征という言葉にまつわる全てを排そうとした。だから遠征とは呼ばず、日本国内の山行と同じという意味で合宿という言葉を用いた。計画は順調に進み、全ての課題が成功裏に終わろうとしていた。しかしアマダブラム登頂後の南西稜の下降で、石橋真が転落死してしまう。石橋は坂下直枝が最も信頼し、期待していた後輩だった。

2011年5月、日本で最もヒマラヤ経験が豊富な尾崎隆がエベレスト南東稜で遭難死した。尾崎もまた、1982年チョゴリ北稜遠征の坂下の盟友だった。1996年のマナスルの小西さんの死に続き、尾崎さんまでもが鬼籍に入ってしまった。坂下直枝の胸に去来したものは何だっただろうか。

「ふと、この青い滔々とした流れが、タリム盆地を横断するタリム川の支流であることを思い出す。この大河は、タクラマカン砂漠を東へ東へと遥か数千キロ流れて次第に熱砂の中に吸い込まれ、やがてロプノール湖に達した後に消えてしまうという事実に気づいたとき、何か啓示にも似た感慨に襲われ、彼ら二人の運命がこの川の流れのようにも感じられて、深い畏敬の念に打たれた。」坂下直枝はチョゴリで死んだ友を想い、帰途のキャラバンでの印象をこのように綴っている。

坂下は登山という行為が日常、非日常の区別なく人間の業に根ざす、「諸行無常」なものと感じたのかもしれない。死は全ての希望を奪い去る。生かされてきたことを知った時、人はその幸運に感謝し畏怖する。同時にそれまでの無知を恥じる。坂下さんが自らの思いを反芻し、それを昇華させるのに30年という年月を費やしたことに私は感動した。

今日、時を経てアルピニズムは変質したかに見える。しかし30年前に坂下直枝や大勢の登山家が求めた流れは今も滔々と流れ、次世代に受け継がれている。彼らは真摯に山に向き合い、困難なクライミングに情熱を傾けている。最近、和歌山の那智の滝を登って捕まった人がいるという。神聖を冒涜する行為に思いが至らなかった無知は恥じなければならない。しかし萎縮してはならない。戦時中がそうだったように、いつの時代も登山は時に反社会的行為と看做される。そして正義を語る人たちによって糾弾される。

那智の滝の登攀は天に唾することかもしれない。しかしカイラスを巡礼する盗賊のように無知を恥じて詫びれば良い。「昔、3人の天狗が恐れ多くも滝に手をかけ、バチが当たりそうになった。しかし赦されて峰々を攀じる修行に励んだ。」やがて彼らは天狗になぞらえられるかもしれない。私は場所がどこであれ、そこを登ろうとする精神に反対しない。登山とはそもそも神々が坐す峰々を攀じる行為なのだ。

私は20年以上も山の世界から遠ざかり、日々の暮らしに追われて昨今の状況に疎い。私と山との関わりは、生活の場であるニセコで人々を雪崩事故に遭わせないようにすることだけだ。私はそこに住む者の責任としてこれを続けている。

事故の多くは過信が引き起こす。そして過信は無知ゆえに生まれる。無知は罪だ。私は自由の尊重と他者への配慮が大切と考えている。それが知慧と慈悲の心なのだと思う。

現代は多様な価値観という言葉で、本当に価値あるものが退けられる時代のように思う。価値あるものはそう多くはない。やるに値することを探し当て、生を全うすることは、砂漠で針を探すほどに困難なことだ。アルピニズムとは、その数少ない価値あるものなのだ。ガラパゴス化という言葉があるそうだ。その地域にしか通用しない進化を否定的に指す経済用語だという。私の辿った道もまたガラパゴス化と呼べなくもない。他の知識や技術との互換性がないからだ。しかしそうすることで私は生きてきた。日本のアルピニストも独自の進化を遂げれば良い。経済原理だけが真理ではない。

私は次の冬に若者が再び真摯に雪山に向き合うことを願う。その時に坂下さんが書いたことをぜひ思い出してほしい。坂下直枝はこう書いている。「自分の若い時代に行った多くの山行に、不細工ながらもそれぞれの小さな結晶を添えることができるとすれば、それぞれの登山は自分の記憶の中で、より輝きを増すのかもしれない。」坂下直枝は登山の記憶が灰となって凝縮し、思考という熱と圧力によってやがてダイヤのような結晶になるのではないかと、「30年後」の最後に綴っている。


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新谷暁生
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男性